短所を長所にするのは簡単なことではない

「あなたの語りはスムーズではないけれど、一生懸命さが伝わってきてよいね」という評価を受けることが何度かあった。話すのが苦手な私にとって、自分の語りが好意的に捉えられていることについてはうれしく思う。一方で、きちんと思っていることをスムーズに伝えられるようになりたい、またはそういう人「でありたい」というフェーズがあるのも事実である。ここで「自分が短所だと思っていることを他の人が長所だと思っている」場合の私のジレンマが発生する。自分はうまく喋れるようになりたい。一方、他者は私のたどたどしい語りに「価値」をつけ、ともすれば期待する。そのような構図によって、私のコミュニケーションの方法は固定化されてしまうのではないか。

この例を引き合いに出すのはどうかと思うが「外国人の片言」というキャラクターは、好意的に捉えられることがある。また「方言女子」のように、標準語ではない言葉を話すことに「未熟さ」を感じ、好意的に捉えることがある。私たちは無意識のうちに「未熟さ」を消費しているのではないか。

一方で、完璧な語りこそが正義で、他は劣ったものであるという考え方に関しては、人には人の関わり方があり、そもそもどこを目指したら100点なのか、誰もわからない。

つまり「自分が目指したい自分像」と「他者が評価する自分像」が異なっている場合のジレンマの話をしている。短所は見方を変えれば長所、というのはよく言うけれど、「その特性」をもつ当人が、長所として捉えることができるようになるには相当な時間と労力がかかるのではないか。

これを成人女性が語っている時点でかなり問題があり、おそらく普通はこのような自意識は思春期に解決しているものなのだろう。コンプレックスと闘う夏になりそうだ。