短所を長所にするのは簡単なことではない

「あなたの語りはスムーズではないけれど、一生懸命さが伝わってきてよいね」という評価を受けることが何度かあった。話すのが苦手な私にとって、自分の語りが好意的に捉えられていることについてはうれしく思う。一方で、きちんと思っていることをスムーズに伝えられるようになりたい、またはそういう人「でありたい」というフェーズがあるのも事実である。ここで「自分が短所だと思っていることを他の人が長所だと思っている」場合の私のジレンマが発生する。自分はうまく喋れるようになりたい。一方、他者は私のたどたどしい語りに「価値」をつけ、ともすれば期待する。そのような構図によって、私のコミュニケーションの方法は固定化されてしまうのではないか。

この例を引き合いに出すのはどうかと思うが「外国人の片言」というキャラクターは、好意的に捉えられることがある。また「方言女子」のように、標準語ではない言葉を話すことに「未熟さ」を感じ、好意的に捉えることがある。私たちは無意識のうちに「未熟さ」を消費しているのではないか。

一方で、完璧な語りこそが正義で、他は劣ったものであるという考え方に関しては、人には人の関わり方があり、そもそもどこを目指したら100点なのか、誰もわからない。

つまり「自分が目指したい自分像」と「他者が評価する自分像」が異なっている場合のジレンマの話をしている。短所は見方を変えれば長所、というのはよく言うけれど、「その特性」をもつ当人が、長所として捉えることができるようになるには相当な時間と労力がかかるのではないか。

これを成人女性が語っている時点でかなり問題があり、おそらく普通はこのような自意識は思春期に解決しているものなのだろう。コンプレックスと闘う夏になりそうだ。

やりたいこと

毎日日記をつけることにしているけれど今日は本当に眠くてどうしようもないので、大小やりたいことをメモしておくにとどめとこ

  • 週3冊本を読む(小説、教育系、哲学系)
  • 自分の本を出す(論文でもフィクションでもいい)
  • 毎朝、予定をチェックして勉強する習慣をつける
  • 毎日掃除機をかける(毎日トイレ掃除とお風呂掃除はできるようになった!)
  • 毎日ゴミを出す
  • 毎日シーツを洗う
  • 模様替えをする

思いつくままどんどん書いていったらなぜか本のことから家のことになってしまった。あと怠惰すぎる

本当は海外で働いてみたいという今までにない欲求が湧いてきている。貧乏グセがついてしまっているので、海外なんて一生行かないと思ってたけど、仕事で行けばいいじゃんと。そんな話を真剣に聞いてくれる友達がいて本当に良かった。

  • 寝たい

寝ます

精神は朽ちるか

今日、体育の授業で「心身二元論」という考え方が出てきた。これは「精神が肉体よりも上位にあり、精神は朽ちることがない」という考え方らしいのだけど、自分の中のギャルが「え?精神朽ちるくない?」と言った。そういえばこんなことを考えるのは初めてだった。そもそも精神とはどこを指すのか。自分の内声や思考を司るのが精神だとすれば(つまり、幽体離脱したときの出ていく方)、これはやっぱり朽ちるんじゃないかと思う。複雑なことを考えられるようになった一方で、単純な美しさに対する感性は失われてしまったように感じる。これはやっぱり朽ちているのではないかと思う。

これで日記が10日続いた。今まではとにかく続けることを最優先していて、あまり内容にこだわりがなかったけれど、今後は3日に1回くらいきちんと書きたい。

「若者ことば」は存在するか

日本語教育演習室に「若者ことば辞典」という本がある。しかし出版が平成9年のため、ほぼことばのおはかである。

若者ことばについての研究はよく聞く。しかし、若者ことばの当事者でないと、細やかなディテールまでは理解できないのだろうと思う。

例えば、最近では「卍(まんじ)」が私の周りで話題になった。本当にそれだけでは意味がわからないのだけど、たぶん「程度の強いさま」を表す言葉として機能していると思う。

私たちもなんやかんやマンジマンジ言っているけれど、私たちの使っている卍は生きた卍ではない。「なんか高校生が使ってるらしいよくわからん言葉を使ってみました笑」的な揶揄が含まれているからである。これが、CMなどで突然若者ことばが使われるときの「サムさ」の原因だろう。

若者ことばはそれとして世間的に認知されるまでにかなりのタイムラグがある。「若者ことばクイズ」に取り上げられる頃にはもう死んでいたりするので、あのクイズは結構寒い。あと「これ絶対分かんないでしょ笑」という「若者」側の感じが出てしまっているのもちょっとぞくぞくする。

一方で、若者ことばを本気で使っている層はあるのだろうか。もし揶揄りなしで使っているのならば、それは「若者ことば」として認知されないのではないか。「若者ことば」認定された瞬間にそれは本当の意味で若者ことばではないのではないか。

もしも大学オケにマネージャーがいたら

もしも大学オケにマネージャーがいたら。今までも何度か考えたことはあったが、3秒後には考えるのをやめていた。マネージャーにとって何のメリットもないような気がしていたからだ。全然面白くなさそう。でも今日はちょっと先まで考えてみた。

世の中では、スポーツのマネージャーは一般的である。何で野球部のマネージャーは人気があるのか?考えられる理由は2つある。

①野球はしないけど観戦するのは好きという人は、たくさんいる

野球ファンは多く、野球はプレイだけでなく観戦するほうの楽しみ方も定着している。そのため、プレーヤー以外の関わり方にも需要があると考えられる。

②「野球部のマネージャー」そのものがステータスである

野球部のマネージャーは、漫画やアニメでも取り上げられ、充実した学生生活の象徴ともいえる。そのため、あこがれを抱く人は多いだろう。

 

以上の理由を考えた時に、改めて大学オケのマネージャーをやることのメリットを考えると、②は、まだオケのマネージャーが一般的ではないため「オケのマネージャーに憧れてるんです!」という不思議な人は現れないと考えられる。では、①の方はどうだろうか。私は楽器を始めてからオーケストラを聴くのが好きになった、という順番なので、①には当てはまらない。でも、小さいころにピアノをやっていてドビュッシーが好き、とか、クラシックを聴くのが好きという人はよくいる。ステージを創るという経験を通して、音楽をもっと楽しんでもらうというアプローチなら可能だと考えられる。

しかし、これだけではマネージャーになりたいと思う人はいないと思う。私だったらプレーヤーになりたいと思ってしまうだろう。

料理の効能

帰ったら野菜を刻もう。最近はいつもそんなことを考えている。料理は一人暮らしを始めるまでほとんどしなかったし、料理の内容もたいしたものではない。しかし、素材を自分の手で刻んで食べ物にしていく過程はとても豊かだと感じる。

「何が食べたいか」から料理を始めるのは、自分の食べたいものを自分で生み出せる万能感で満たされる。「今あるもので何ができるか」からできた料理が美味しかったら、今あるもので幸せになれるという自信がつく。私が一番好きなのは「何を料理するか」で準備をすることだ。特に、何を刻みたいか。基本的に玉ねぎを切るのが好きで、必要なくても刻んでしまう。目が痛くなるときは、あらかじめ玉ねぎを冷蔵庫に入れておくとよい。その他にも、包丁が素材をすっと通る感覚はリラックス効果があると思う。

自分の作った料理が美味しいときほど自己肯定感の高まる瞬間はない。

「この料理美味しい~!これ作ったの誰?私じゃん、天才か?」

ちょっと気分が落ちている方、自炊おすすめです。

停滞期

去年くらいから、街で知り合いに似ている人を見かけることが多くなった。もちろん、知り合いが増えたからというのが一番の要因なのだと思うけれど、同じような顔の人を同じカテゴリーに振り分けることで情報量を減らしているのではないか。

これは多分発達で、脳の処理が効率的になったのだろうけど、最近は見るもの感じるものがうすぼんやりしている気がする。高校までは、もっと彩度の高い情報を得ていたような気がする。

今日で日記を始めて6日になった。高校までは、3日も前の自分は別の自分で、日記を振り返ったら恥ずかしくてすぐ消していたと思う。今は、1年前の文章を読んでも割と平気だ。よく言えば自分の存在を受け入れられているのだろうけれど、自分の変化のスピードが遅くなっているんじゃないかとも思う。

一方で、自分の関心が自分の内面に向きすぎているんじゃないかとも思う。目を見開いて、外を見なければ。